担当営業所
新宿営業所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 東京駅南口~有楽町駅~日比谷~国会議事堂~首相官邸~神谷町~狸穴 | 6.347/ 6.306km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
63 | S29. 4. 1 | 新宿 | 8.900km | 郵政省(現麻布台)~首相官邸~東京駅南口~日本橋~茅場町が開通 |
63折 | S29. 6.25 | 新宿 | 5.660km | 郵政省~東京駅南口を開設 |
63 | S29.12.20 | 新宿 | 18.010km | 郵政省~東京駅南口~日本橋~茅場町・浜町・江戸橋循環に延長 |
63 | S30. 7. 3 | 新宿 | 18.010km | 日曜・祝日の運転を休止 |
63 | S37.11. 1 | 新宿 | 6.067/ 6.026km | 東京駅南口~狸穴に短縮 |
63 | S39.12. 5 | 新宿 | 6.347/ 6.306km | 霞ヶ関付近の経路変更 |
63 | S41. 7. 1 | 新宿 | *** | 東京駅南口~狸穴を廃止 |
路線概要
狸穴(まみあな、現麻布台)から官庁街を経由して東京駅南口を結ぶ。現在の郵便局の東京支社が入る日本郵政グループ飯倉ビルのそばから出発する。立派な建物は昭和5年に完成した逓信省貯金局の庁舎で、戦後の昭和24年からは郵政省の本庁舎として用いていた。ちなみに、狸穴は外苑東通りを挟んで反対側のソ連(現ロシア)大使館側の地名で、郵政省のある側は飯倉の地名だった。
東京タワーを目前に見つつ、飯倉の交差点で左折して桜田通りに入る。神谷町を過ぎ、西久保巴町(現虎ノ門三丁目)の先を左折して桜田通りと別れ、ホテルオークラの方に向かう。現国立印刷局虎ノ門工場で右折し、「赤坂葵町」停留所に停まる。昭和30年代前半までは電電公社の庁舎があり、停留所名も電信電話公社前となっていた。
虎ノ門病院の前を過ぎ、外堀通りに出るとすぐに特許庁の横の道に入り、特許庁前の停留所に停まる。ここからは官庁循環の[62](四谷駅~東京駅南口)と並走する。現在の内閣府前で首相官邸の停留所に、そして国会の裏手を通り過ぎ参議院通用門の停留所に停まる。
ここからは国会議事堂を回り込むように正門の前を通り、現在の財務省上交差点と国会を一周近く進んだ後は外務省の前の坂を下り、霞ヶ関で左折して桜田通りに戻ると突き当りの桜田門で内堀通りを右折し、日比谷へ至る。霞ヶ関~日比谷は四谷駅方面のみ桜田門近くで法務省前に停車するだけで、逆方向はノンストップであった。日比谷からは、他の系統と同じく有楽町駅・都庁前(現東京国際フォーラム)を経由して東京駅南口が終点となる。昭和37年までは東京駅から先にも路線があり、[24](東京駅南口~浜町循環)と同じ経路で茅場町・水天宮・江戸橋を循環していた。
歴史
官庁横断線とも言われた路線で、元々は都営バスの路線ではなかった。戦後すぐに官庁の職員専用の連絡バスとして国際自動車が運行を開始したものである。詳しくは[62]の歴史の項も参照のこと。郵政省は霞ヶ関の官庁街から離れた地にあり、官庁街への連絡手段として運行を始めたのだろう。
当初は職員専用という名目だったが一般人も普通に乗車できたようだ。当時の東京は会社ごとにエリア内を独占して運行していたことから問題となり、昭和28年に交通局に路線・車輛が譲渡され、東京駅~四谷循環の循環線[62]と郵政省~茅場町[63]の横断線が開通した。当初は双方とも新宿担当だったのが面白い。昭和30年4月の目黒の開設とともに[62]は目黒・新谷町に移管され、新宿は[63]を担当するだけとなった。
[63]は、路線開設直後は国際自動車の路線そのままに狸穴(郵政省)~東京駅~茅場町という形だったが、すぐに組み替えられ、東京駅からは[24](東京駅南口~浜町循環)と同じ形になり、昭和29年12月には郵政省~東京駅~浜町循環という路線になった。沿線にあるのは兜町の証券街や商業地域だが、これらを結ぶ需要があったということだろうか。
▲東京都地図地名総覧(人文社、昭35)に路線を追記
もっとも、都営バスにとってもあまり旨味のある路線ではなかったようで、昭和30年7月には需要の低下する休日の運転を取りやめた。昭和35年時点のデータでは、狸穴~東京駅が30~40回程度、狸穴~浜町循環の通し運転は25~30回程度であった。朝7時台から夕方17時台までの運転だったようだが、1時間当たり3本程度となり、当時にしては少ない本数である。ただし、東京駅~浜町循環の部分は[24]も頻発していた。
結局、昭和37年に狸穴~東京駅南口の部分を残して廃止された。昭和39年には国会付近の道路が大幅に変更されて経路変更されているが、これについては並行する[62]の説明を参照のこと。残った区間も昭和41年7月には全線廃止された。昭和40年の調査では全区間で1便あたり4人程度と効率は悪かった。他の路線再編成に先駆けての廃止で、かなりの赤字系統だったのは間違いないところだろう。
なお、郵政省の本庁舎は廃止後も飯倉ビルに残ったが、昭和44年には霞ヶ関に移転していった。