担当営業所
青戸支所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 青戸公団操車場~青戸車庫~東向島広小路(←清川、橋場2→)浅草寿町~東京駅八重洲口 | 14.681/14.711km | 朝夕 |
折 | 青戸公団操車場~青戸車庫~東向島広小路(←清川、橋場2→)浅草寿町 | *** | |
出入 | 青戸公団操車場~青戸車庫 | *** |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
39 | S27. 2.15 | 新谷町 | 6.035km | 吾嬬西9(現新四ツ木橋付近)~隅田公園~浅草寿町が開通 |
39 | S27. 7.13 | 新谷町 | 11.590km | 浅草寿町~東京駅八重洲口を延長 |
39 | S29.12.27 | 新谷町 | 11.331km | 石浜経由から橋場経由に変更 |
39 | S34.11. 1 | 青戸 | 13.011km | 青戸分車庫開設により移管、青戸車庫~浅草寿町に延長 |
39 | S37. 2. 1 | 青戸 | 13.011/13.111km | 橋場地区、東京駅行きを橋場2経由に、青戸行きを清川経由へと変更 |
135 | S38. 8. 1 | 青戸 | 14.681/14.711km | 京成と相互乗入、135系統とする。青戸公団操車場~青戸車庫を延長 |
135 | S45.12.25 | 青戸 | *** | 青戸公団操車場~東京駅八重洲口を廃止 |
路線概要
京成との共同運行で青戸公団と東京駅八重洲口とを結ぶ。白鬚橋・東武浅草駅・佐竹通り南口を経由するなど、裏通りの感が強い系統だった。大半は東武浅草駅折り返しで、東京駅八重洲口まで行く便は僅か。
青戸公団から東京駅八重洲口を大回りで結ぶ。始発の青戸公団操車所は青砥駅の北西、現UR青戸第一団地の北側の折返所のそばにあり(折返所の項も参照)、そこから青砥駅方面に発車していた。次の青戸一丁目からは[125](→[錦37])と並行するが、青砥駅北口を右折して京成線の踏切を渡り、葛飾公会堂で右に折れて[125]と別れる。葛飾区役所を右手に見ながら進むとすぐに水戸街道で、左折して青戸車庫の停留所に出る。
ここから水戸街道をしばらく進み、四ツ木橋を渡りそのまま本所吾妻橋・浅草に向かうのかと思いきや、東向島広小路で右折して明治通りに入る。白鬚橋を渡ったところですぐに左に折れ、隅田川沿いの橋場通りを南下する。ちなみにこの区間は南行きの一方通行で、青戸行きは一本西側の石浜通りを通っていた。この区間については[東42乙]の項も参照。今戸の停留所で合流し、言問橋西からは江戸通りに入り、東武線のガードをくぐって東武浅草駅(浅草松屋)に到着する。
東武浅草駅を出るとすぐに右折、雷門から浅草寿町に出る。ここで大半は折り返してしまう。この後もジグザグな経路を進み、寿三丁目で春日通りへ右折し、しばらく御徒町駅方面に進んでから元浅草一丁目を左折、僅かな区間だけ[67](日暮里駅~新橋)と並走する。佐竹通り商店街の入口で道路を折れる[67]の経路と別れ、[135]はさらに直進して南下。鳥越一丁目で蔵前橋通りと交差し、総武線をくぐって神田川を美倉橋で渡り、東神田の交差点にて靖国通りと合流。ここで右折し、須田町を経由して中央通り経由で東京駅八重洲口を終点とした。
歴史
昭和27年に開業した系統で、浅草寿町~吾嬬西九丁目(現八広)を結ぶ系統として誕生した。他の水戸街道経由とを特徴づけ、雷門から江戸通りを北上して今戸、そこから石浜通りを通って明治通りに出て白鬚橋を渡り、寺島広小路(現東向島広小路)を左折して水戸街道に入るというルートになった。かなり遠回りなルートに見えるが、石浜地区の休止区間免許の復活も考慮されたのだろうか。
吉野通りと隅田川に挟まれた石浜地区に初めてバスが通ったのは昭和12年4月のことで、当初は[35,36](大島車庫~白鬚橋~今戸町・東武浅草駅・千束町循環)が通った。翌年には[35](大島車庫~吾嬬西九丁目~白鬚橋~今戸町~東武浅草駅~新谷町)、昭和15年には[21](松坂屋~浅草雷門~今戸町~白鬚橋~吾嬬西九丁目)と組み替えられるが、いずれも戦後と同じく浅草から白鬚橋・吾嬬西九丁目方面に向かっていたのは興味深い。その後、昭和18年6月の改編で石浜の区間は廃止され、9年ぶりに復活した。
さて、開業の5ヶ月後には東京駅八重洲口まで延長された。ジグザグに道路を経由して浅草~須田町まで至っているが、戦前の休止区間である竹町(元浅草一丁目)~豊島町(東神田)の復活を主眼に置いたルートだったのだろう。もっとも、八重洲口に来るようになったのは朝夕の数本のみだった。昭和35年現在では浅草以遠36往復、東京~浅草12往復で、当時としては本数の少ない系統だった。乗客数を見ても1,000人/日と、他系統に比べるとかなり空いていたようだ。
昭和34年11月には車庫の開設とともに青戸車庫まで延伸されて青戸所管となり、昭和37年2月には現在の[東42乙]と同じように橋場地区での経路が上下で分かれるようになる。そして昭和38年8月には京成と共同運行となって青戸公団操車場まで延長された。この時点で東京駅までは2社合わせて朝夕のみ12回、浅草寿町までは32回運行されていた。
昭和40年の乗降客調査でも乗客数は芳しくなく、浅草から南側はさらに閑散としていた。そして昭和45年に全区間廃止された。全体的に遠回りで、橋場地区も少し歩けば本数の多い都電が走っていたため、それほど乗客が定着しなかったのだろう。
しかし廃止されて交通は不便になったと感じた人は多かったらしく、それから15年経って、石浜・橋場地区には[東42乙]という形で路線が復活した。