都営バス資料館

×79

[79]

担当営業所

杉並営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
沓掛町操車所~四面道~荻窪駅~杉並車庫~鍋屋横丁~新宿駅西口  9.176km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
79 S38.12. 1 堀ノ内 7.976km 都電14系統(新宿駅~荻窪駅)の代替で四面道~荻窪駅~新宿駅西口が開通
79 S39. 5.10 堀ノ内 9.176km 沓掛町操車場(→清水操車場)~四面道を延長
79 S41. 4.20 堀ノ内 ***  沓掛町操車場~新宿駅西口を廃止

路線概要

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 都電14系統(新宿~荻窪)の代替で新宿駅西口と沓掛町操車場(清水操車所)を結ぶ。代替に際して荻窪駅の先の四面道まで延長されている。経路自体は青梅街道を一直線に走るだけであり、並走していた[東75](東京駅南口~清水・東伏見)の項を参照のこと。
 開通当初の終点は四面道で、後に沓掛町操車所まで延伸された。荻窪駅と環八が交わる主要交差点だが、どこで折り返していたのかは謎である。この系統が廃止された昭和30年代は環八の拡幅が進む前で、片側1車線程度の小さな交差点であった。
 終点の四面道は江戸時代より青梅街道の一里塚があった重要な地点で、四面道の由来は諸説あるが、一説としては四面燈(灯)から来たというもの。交差点はちょうど天沼・上/下井草・下荻窪の4村落の境となっていて、そこに秋葉神社という寺社があり、その境内に四方を照らす明かりが灯っていたということが元になったと言われている。
 そこから四面道を右折して環八を北上し、ほどなく操車所の終点に到着する。現在は高規格な幹線道路になり、この系統が走っていた当時の面影を探すのは難しいだろう。

歴史

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▲昭和7年現在
 都電14系統は、新宿駅から青梅街道をまっすぐ進み、荻窪駅を終点としていた。元々新宿駅は大ガードの手前、都民銀行付近から発車していた。山手線から一路外側へと向かうことや、軌間が他とは異なり唯一の狭軌(1,067mm)であることも含め、他の系統とは感じが異なっている。この路線は、元々西武軌道が大正10年に淀橋~荻窪を開業したもので、昭和10年に東京乗合自動車(青バス)に経営を委託し、回りまわって昭和17年の交通調整時に一括して東京市が委託も含めて引き受けることになったためである。その後、昭和28年に正式に交通局のものとなり、都電の一員となった。昭和17年の一元化の時点では、既存の市電の系統の後に一元化した系統を含めたため、36系統と名乗ったが、終戦直後の番号の振り直しの際に既存の番号順に組み込まれ、昭和21年以降は14系統となった。
この時点では、新宿~鍋屋横丁のみ複線で、それ以降は単線であったが、輸送力増強もあって順次複線化が進められ、昭和31年には荻窪駅の終点が南口から中央線を陸橋で越えて北口に達するルートに移設され、終点部を除いて全線で複線化が完成した。
 ただし、この系統は都電としての歴史は短いものであった。昭和37年に新宿~荻窪に営団荻窪線(現丸ノ内線)が全通したこともあり、昭和38年12月に他の都電より一足先に廃止された。代替時は一般系統の番号順に[79]を名乗り、荻窪駅では折り返せないためその先の四面道まで運転していた。代替というよりは、同一区間に青梅街道を走る[300]・[304]が既にあったため、長距離路線の補完のような存在であったのだろう。昭和30年の時点では荻窪駅~杉並区役所は176回、杉並区役所~杉並車庫は277回、杉並車庫~鍋屋横丁は387回、鍋屋横丁~新宿駅は432回と、混雑区間は今の銀座線よりも本数が多いほどの運行だったのが、代替後の昭和40年の時点では、通し運行は85回程度と激減している。
 この系統用として、昭和38年12月に都営バス初のワンマン対応車が導入されたものの、労使の協議が完了せず、都営バス初のワンマン化は昭和40年初頭までずれ込んだ。その後も79系統は昭和41年度のワンマン化の系統にも見当たらないことから、廃止までツーマン扱いだった可能性が高い。
 後に沓掛町操車所(清水操車所)まで延長されるが、昭和41年5月の青梅街道筋の路線再編で廃止されてしまう。代替バスとしての命はわずか2年半と、都営バスの数ある系統でもトップクラスの短命さであった。地下鉄が全通した時点で、半ば意義を失っていたのかもしれない。
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▲昭和30年頃の路線案内

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