都営バス資料館

×115

[115]

担当営業所

品川営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
東京駅八重洲口~銀座東8(←平和島、第一オペレーションセンター→)羽田空港 17.585/21.060km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
115 S24. 2. 1 品川 20.008km 川崎駅~蒲田駅~品川駅~東京駅八重洲口が開通、京急と相互乗り入れ
115 S40. 8.25 品川 *** 川崎駅~東京駅八重洲口を廃止
115 S40. 8.25 品川 17.585/21.060km 東京駅八重洲口~(首都高速)~羽田空港が開通、京急と相互乗り入れ
115 S44. 9.16 (芝浦) 17.585/21.060km 芝浦分車庫の開設により移管
115 S45.12. 1 (芝浦) *** 東京駅八重洲口~(首都高速)~羽田空港を廃止

路線概要

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 京急との数少ない相互乗り入れ路線であった。東京駅八重洲口から[東94](東京八重洲口~池上駅)と同じように中央通りに入って京橋・銀座・新橋駅を通り、第一京浜を南下して品川駅に、さらに南下して京浜急行に沿って青物横丁・立会川・平和島・京浜蒲田と通り過ぎ、六郷橋を渡って川崎駅を終点としていた。大通りをひたすら走るというあまり面白味のない路線ではあるが、都バス史上で唯一神奈川県に乗り入れた路線でもあった。
 同じ115系統でも昭和40年に大きく路線形態が変更された羽田空港行きは以前とは全く別物の路線である。共通点は東京駅八重洲口発着と京急との共同運行路線ということくらいであろう。
八重洲口を出ると八重洲通りから昭和通りへと入る。昭和通りにはバス路線が少なかったため少し新鮮だろう。開通当初は[30](千住車庫~昭和通り~新橋駅、千住の項参照)も走っていたが、最後までこの区間の昭和通りを走っていた路線でもある。
銀座東八丁目停留所を過ぎると汐留ランプから首都高速に入る。昭和39年8月に鈴ケ森出入口~空港西出入口が開通し、都心から空港まで高速道路で行けるようになった。これを利用した野心的な試みだったのだろう。
 行きは空港西ランプまで高速利用だったが、帰りは大鳥居から産業道路を通り、平和島を抜けて大森駅に一旦寄った後に改めて鈴ケ森出入口から首都高速に入るルートとなっている。今の大森駅~羽田空港に近いが、羽田空港から大森駅までは急行運転で、途中は穴守稲荷・大鳥居・北糀谷・平和島駅のみ停車だった。なお、当時の羽田空港ターミナルは今の国際線ターミナルより手前にあったことに注意されたい。
大森駅などに寄ることで、帰りはとりあえず近くの国鉄駅に直結させておこうという魂胆だったのかもしれない。

歴史

川崎行きの115系統は、昭和20年代に相次いで開設された長距離路線の1つである。
本数は2社合わせて100回程度となかなかの頻度であったようだが、昭和40年に羽田空港~東京駅という路線を開業させるにあたって、さっさと廃止されてしまった。品川から川崎まではほとんど京急本線と並行していることや、京急の駅数が元から多かったこと、さらには都営地下鉄との相互乗り入れが予定されていたこともあって、どっちみち意味のない路線になってしまうと判断されたためであろう。
 ちなみに、この系統の志を継ぐ都営1号線と京急の相互乗り入れが開始されたのはそれから3年後、昭和43年のことである。
 二代目115系統の羽田空港行きは、都バス史上初の首都高を走る路線である。
もともとは東京オリンピックに合わせて昭和39年7月に免許申請されたものであり、オリンピックには間に合わなかったものの、申請後1年での昭和40年8月25日開業と、普通の系統に比べるとスピーディーな開業となったようだ。
 この当時、首都高速は1号線と4号線(新宿線)が開通した程度であり、まだ首都高速上を走る一般バス路線は存在しなかったようだ。ルートは往路は羽田まで首都高を利用、復路は平和島・大森駅まで産業道路経由の一般道を利用した後、鈴ヶ森入口から首都高に入り、1日20回ずつの計40回運行となった。ちなみに汐留出入口から東京駅八重洲口までは昭和通り経由で、一般路線の停留所をそのまま流用していた。昭和44年に[30](千住車庫~(昭和通り)~新橋駅)系統が上野広小路まで短縮されてからは、宝町や銀座東一丁目に停まるバスはこれだけとなった。
 設定所要時間は往路30分、復路40分で、従来の大森・蒲田からのバス利用に比べて20分短縮と謳われたようで、当時の交通局の意気込みはかなりのものであった。
 しかし、ネックは運賃であった。片道300円の高速料金がかかるため、運賃は70円に設定され、同じような距離となる他の路線に比べ、およそ20~30円ほど割高になっていた。また、首都高が思った以上に渋滞し、時間通りに走れないことも多かったようだ。
 運賃は昭和44年までは70円で据え置かれたが、乗客数は思った数に届かなかったようで、昭和45年11月末の運行をもって廃止された。ルート自体は後年、京急バスと東京空港交通が[空01]として同じ区間を復活させたものの、都バスの羽田空港乗入れはこれが最初で最後となった。時代が早すぎたのであろうか。

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