担当営業所
港南支所
運行区間
系統 | 区間 | 距離 | 備考 |
本 | 五反田駅~高輪警察署~田町駅~三田駅 | 4.620/ 3.670km |
年表
系統 | 年月日 | 営業所 | 距離 | 概要 |
122 | S25. 5.15 | 品川 | 14.527km | 久ケ原(現池上警察署)~東京駅八重洲口が開通、東急と相互乗入 |
122 | S26 .5. 6 | 品川 | 16.927km | 多摩川大橋~久ケ原を延長 |
122 | S34. 6. 2 | 品川 | 18.127km | 通3~東京駅八重洲口の区間を、日本橋経由の大回りに変更 |
122 | S38. 2. 7 | 品川 | 16.887/18.008km | 東京駅行きのみ、日本橋を通らない短絡ルートに変更 |
122 | S41.11. 1 | 品川 | 16.887km | 日本橋大回りの経路を廃止 |
122 | S44. 9.16 | (芝浦) | *** | 芝浦分車庫の開設により移管 |
6 | S45. 9.21 | (芝浦) | 8.187km | 多摩川大橋~五反田駅を短縮、東急との相互乗入を中止し6系統とする |
6 | S46.12. 1 | 品川 | *** | 芝浦分車庫の廃止により移管 |
東96 | S47.11.12 | 品川 | *** | 新番号化、東96とする |
反96 | S57.12.26 | 目黒 | 8.960km | 五反田駅~高輪警察署~田町駅~芝園橋~一ノ橋~魚籃坂下~五反田駅に短縮変更、反96として目黒に移管 |
反90乙 | H 2. 6.30 | 品川 | 4.620/ 3.670km | 分割、五反田駅~田町駅を独立し反90乙とする。品川に移管 |
反90乙 | H 4. 3. 1 | 目黒 | *** | 目黒に移管 |
反90乙 | H10. 3.31 | 品川 | *** | 品川に移管 |
反90 | H12.12.12 | 品川 | *** | 系統番号を反90とする |
反90 | H20. 4. 1 | 港南 | *** | 港南に移管、はとバスに運行を委託 |
反90 | H27. 4. 1 | 港南 | *** | 五反田駅~三田駅を廃止 |
路線概要
五反田駅と三田駅を結ぶ城南地区の小ぶりな路線。かつて東京駅と多摩川大橋を結んでいた長大系統のなれの果てとは信じられないくらい、コミュニティバスのようなのんびり裏道路線となっている。
五反田駅を出ると高輪台駅までは桜田通りを進むが、坂を登りきった高輪台駅で突如右折して衆議院宿舎の道に出てしまう。今の桜田通りの拡幅ぶりを見ると、かつてはこちらも都心へのメインの道路だったとは俄かに信じがたい。
後は、この桜田通りと第一京浜に挟まれた高輪の台地の稜線のような道を進む。高輪警察署で少しだけ並走した[品93](目黒駅~大井競馬場、品川の項参照)と別れ、レトロな高輪消防署二本榎出張所の建物を右に見ながら進む。付近は住宅や寺院も多く、都心に近いながらも閑静な街並みである。
大丸ピーコックのある高輪一丁目交差点で、同じく五反田駅から出て別れた[反96](五反田駅~六本木ヒルズ)とクロスする。右手が泉岳寺、左手が魚籃坂下だが、左右どちらも下り坂で、ちょうど今走っている道路が台地の上にあることが分かる。
ここを過ぎても街並みはさほど変わらないが、三田四丁目の停留所から少しずつ下り坂になる。三田中学校と目立つクウェート大使館を左に見る頃には結構な勾配で、一気に台地の下まで下る。
下り切って直進すると、雑然とした商業ビルが目立つようになる。三田図書館のある三田駅の裏手の通りを抜ければ、視界が突然開けて森永ブラザビルと田町駅が目の前に広がる。ここで第一京浜に合流して田町駅の停留所となる。ちなみに五反田駅方面の田町駅の停留所は道路の都合上、先ほどの裏通りにぽつんと建っているため、初見で見つけるのは至難の業だろう。
終点の三田駅はすぐそこ、というよりも既に浅草線の三田駅の真上にいるのだが、バスは大回りして終点に向かう。
そのまま第一京浜を少し進み、日本でも有数の短い国道150号線の起点となる東京港口(芝四丁目交差点)に停車し、鋭角に左折して日比谷通りの方に戻り、NEC本社の前で「三田駅」に停車後、第一京浜に合流して元の経路に戻るような循環ルートとなっている。折り返しや過去の改編の経緯の都合でもある。東京港口から三田駅を越えて乗り通すことができるため、三田駅には終点という感じはほとんどない。
出入庫は五反田駅~港南車庫を回送する。なお、[反90]と同じダイヤで、早朝に港南車庫から品川駅東口まで営業運転する便がわずかに存在する。現在では[田99]の出入庫と同じルートとなっているため、詳細は[田99]の項で述べる。
歴史
この系統は現在の[反96](五反田駅~六本木ヒルズ)と密接に関連しており、品川の[反96]の項も参照されたい。[反96]の項でも述べた通り、五反田から高輪・品川にかけてのエリアは戦前においては東横バスのエリアとなっていた。五反田駅~高輪警察署~田町駅の区間は昭和初期から路線が存在し、古くからの流動があったことがうかがえる。
その後、昭和17年の交通統制により東京市に一元化されて[2]田町駅西口~高輪警察署~五反田駅~品川駅というコの字型の路線が設定されたが、五反田駅~田町駅の区間は昭和18年6月の改編で廃止されてしまった。
戦後にこの区間が復活するのは昭和25年5月のことで、都心から郊外を結ぶ長距離路線の一部としてよみがえった。第二京浜を下る[122]東京駅八重洲口~五反田駅~久が原(現・池上警察署)である。八重洲口から中央通りに出た後、新橋駅・大門まで南下した後、左折して増上寺の大門をくぐって港区役所前から日比谷通りに入り、御成門・三田まで南下、三田からは現在の[反90]と同じく五反田駅まで、そこからは第二京浜をまっすぐという経路であった。五反田駅~新橋駅は第一京浜を走る[100](東京駅南口~雪ヶ谷→[東90]:当時、品川の[反96]の項を参照)との差別化もあってかなり独特なルートになったと考えられるが、素直に品川を経由する[100]のほうが乗客が多かったことは否めない。
翌年の昭和26年5月には久が原から多摩川大橋まで延長された。また、同時期に東急単独で同じ路線の免許を使って、第二京浜経由の東京駅八重洲口~多摩川大橋~横浜駅という長大路線も運行を開始している。都営のエリアまで入っているため、扱いは「相互乗り入れ協定に基づく路線」だったと思われるが、都営は乗り入れ先の議会承認が必要などのハードルがあり簡単には他県には入れないために東急単独での運行であり、共通定期や回数券の取り扱いもなかった。この時代は、東急が別途運行する五反田駅~横浜駅・鶴見駅・川崎駅と合わせて第二京浜は5系統が存在した黄金期であった。
この時代の都心側のトピックと言えば、日本橋への乗り入れが挙げられる。[122]は八重洲口を出るとすぐ通三丁目の交差点を右折して中央通りに入り、銀座・新橋方面へと向かっていたのだが、昭和34年から昭和41年までの間は通三丁目を直進し、先の昭和通りを左折、永代通りを左折して日本橋に停車していた。日本橋の交差点を左折して中央通りに戻るのだが、日本橋といえば白木屋、当時の東急百貨店日本橋店があった土地であり、買い物需要として路線をわざわざ寄らせていた。東急との相互乗り入れ系統ということも大きかったのだろう。
当初は往復とも日本橋経由だったのが昭和38年には下り方面のみ経由になり、昭和41年には取り止めとなった。この日本橋経由は、同じく東急との相互乗り入れ路線の[114](東京駅八重洲口~池上駅→[東94])でも行われていた。
ちなみに、[100]と[122]は似たような路線ということもあり、区別する意味で[122]は芝園橋経由や伊皿子経由、[100]は品川経由と呼んで区別していた。かつてはバスの前面に「122 芝園橋経由 共通定期・回数券取扱車」の札をさげて運転していたようだ。
しかし、昭和40年代に入ると、地下鉄や渋滞の影響が大きくなってくる。その中でも昭和43年の都営1号線(浅草線)の西馬込までの全通の影響は無視できないもので、西馬込~新橋でほぼ沿っているという具合だった。
都心直通の役割を浅草線に譲った形になった[122]は昭和45年9月に五反田駅~東京駅八重洲口に短縮され、系統番号も[6]に変更された。東急の横浜駅乗り入れも同時期までに消滅している。昭和47年の新番号化では[東96]と名乗った。同時期に大門付近の経路が変更され、大門をくぐらずに港区役所~御成門~新橋六丁目と日比谷通りと第一京浜の連絡が一本北の道路にスライドしている。
[東96]は前述の[東90]と比べると裏ルートという感が否めず、浅草線との重複も相変わらず多かった。昭和57年12月の改編では、[東96]の東京駅側が切り捨てられてしまう。田町駅から都心側は[東90]で十分カバーできるだけの乗客しかおらず、地下鉄と重複しない田町以南の高輪の台地部分を残すことにしたのだろう。同時に[橋99](五反田駅~一ノ橋~新橋駅、後の項を参照)で廃止された五反田駅~一ノ橋を復活させることで、五反田駅~高輪台駅~三ノ橋~赤羽橋~芝園橋~三田~高輪台駅~五反田駅というラケット型循環路線に形を変え、系統番号も[反96]と形を変えたのである。
芝園橋から先は左折して古川に沿って一ノ橋まで進み、そこから先はおなじみのルートで魚籃坂下・明治学院を経由して五反田駅に戻ってくる設定であった。
[東96]は品川営業所所管だったが、新生[反96]は目黒営業所に移管された。本数は1日50本程度とそれほど多くないものの、両回りの路線が同じ本数だけ存在したので、一ノ橋あたりから五反田駅に行くときは両方向の路線が使えてなかなか便利であった。
[反96]は方向幕も独特で、前面はひし形状に文字が回る他では見られない形をしていた(写真)。内回りと外回りの2種類があったのだが、あまり見やすいとは言えなかった。
しかしこれも長続きしなかった。三田~一ノ橋の途中区間の乗客は多いとは言えず、平成2年の改編では2つの路線に分割し、[反90乙]五反田駅~三田駅と[反96]五反田駅~魚籃坂下~一ノ橋~赤坂アークヒルズ~新橋駅という形になった。この新[反96]や[反90甲](五反田駅~品川駅)については[反96]を参照のこと。
しかし、ここで不思議なのが[反90乙]という番号である。[反96]を分割したのであるから、本当は[反96乙]にするか、そうでなくても[反94]等の新しい番号を与えるべきであったと思う。分割当初は、[反96]が目黒、[反90甲][乙]が品川担当だったため、営業所をまたいで違う番号にしにくい等の事情もあったのかもしれないが、これは疑問が残る。この時点で昼間は1時間に2本に減らされ、当時としては本数が少ない系統になってしまった。
営業所については二転三転した。平成4年3月には目黒に再び移管され、一旦品川営業所は五反田駅から撤退したのだが、平成10年の3月から4月にかけて、港南車庫の開設により、担当路線の交換を行う目的で五反田駅の発着路線は全て品川管轄に戻った。
[反90乙]の路線はこれにて完成したのだが、外の環境は変化していった。平成12年12月の大江戸線改編では路線は変化がなかったものの、[反90甲]の消滅により、[反90]本線を名乗ることになった。
この時点では1時間に2本の等間隔で使いやすい路線だった。五反田駅発の明治学院経由(当時の[反96]8の字循環、現在の[反94])が本数を減っていくのを尻目に本数を維持していたが、ついに平成16年4月のダイヤ改正で昼間が1時間毎と半減し、終バスも大幅に繰り上がった。そして平成20年からははとバスに運行が委託され、港南に移管されて本数もまた削られてしまった。
今までは高輪の台地を走る系統として、他の交通機関では不便なところを走っているのが唯一の存在意義だったが、平成22年3月からは港区コミュニティバス「ちぃばす」の試験運行が拡大され、高輪ルート(浅草線三田駅~品川駅東口)が運行を開始した。[反90]とは田町駅~高輪三丁目と路線の大部分が重複しており、途中で寄り道するというハンデはあるものの、100円で20分間隔と明らかに利便性はちぃばすの方が上である。
かつて武蔵野市のムーバスであったように、一般路線と融合してコミュニティバス化した方が使いやすい展開になってしまいそうだが、結局交通局は減便と撤退を選んだ。最末期は朝夕のみ7往復、1時間間隔という運行になり、平成27年春の改編で全線廃止された。特に代替措置もなく、利用客は既にほとんどいなかったことが想像できる。