都営バス資料館

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担当営業所

新宿営業所

運行区間

系統 区間 距離 備考
東京駅南口~日本橋~蛎殻町~浜町中ノ橋~日本橋室町~大手町2~東京駅南口  6.277km

年表

系統 年月日 営業所 距離 概要
24 S21. 8.20 新宿 2.523km 東京駅南口~江戸橋~水天宮が開通
24 S22. 4.21 新宿 4.883km 東京駅南口~江戸橋~水天宮~築地に延長
24 S24. 6. 1 新宿 5.919km 東京駅南口~江戸橋~水天宮~茅場町~東京駅南口(浜町循環)に変更
24 S32頃 新宿 6.277km 系統長を変更
24 S45. 3.27 新宿 *** 東京駅南口~浜町循環を廃止

路線概要

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 東京駅南口から茅場町・浜町・室町といった中央区の日本橋地区を循環する系統である。循環系統であるが、両回りが運転されていた。
 東京駅南口を発車すると、丸の内口の駅舎を右に見ながら丸の内北口へと向かう。北口のターミナルを横目で通り過ぎるだけで停車はしないのが面白い。ここから永代通りに右折し、山手線のガードをくぐって日本橋の交差点に出る。一時期は伊豫銀行、東急百貨店前と交差点の前後で二回停車を行っていた。ここから茅場町まで永代通りを進み、左折して日本橋川を渡り、新大橋通りに出る。右手に水天宮を見ながら浜町中ノ橋の交差点を左折し、現在は逆向きの一方通行となっている道路を進み、明治座の前を通る。次の久松町で左折して東京駅方面へと向きを変え、直進して人形町から小舟町へと向かい、日本橋川の北側を進む。現在の半蔵門線の真上の道路で、江戸橋の北側に「江戸橋」、日本橋の北側に「日本橋室町(現日本橋三越)」停留所があった。
 三越別館と日銀の建物を右に見ながらさらに直進し、常盤橋の交差点の先で日本橋川を渡る。逓信総合博物館の前を過ぎ、丸ノ内線の大手町駅の交差点で左折し、東京駅南口を終点とした。

歴史

 昭和21年8月の開通と、戦後ではかなり早くに復旧した系統である。当初は東京駅乗車口(南口)から日本橋川の北側を通って人形町・水天宮までの路線として開業した。この地域から東京駅までは都電では不便なことや、沿線人口が当時に比べてもかなり多く、重要な地域だったのだろう。丸の内南口がターミナルだったのは今から考えると不思議に思える。日本橋方面に向かう路線であれば北口のほうが近いが、開通当時は北口のターミナルを使っていなかったためだろう。北口の復旧後も路線の形はそのままだった。
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▲昭和22年12月現在(点線は昭和24年以降の経路)
 昭和22年4月には水天宮から新大橋通りを南下して築地まで伸び、大きなコの字型のような路線となった。ただ、さすがに遠回りだったようで、昭和23年11月には東京駅~人形町・浜町循環となり、昭和24年6月には東京駅~浜町で日本橋川の南北を往復する大きなループ状の経路が完成した。この間には、2回だけ浜町公園内に仮設会場を作って開催した昭和24年の大相撲一月・五月場所の臨時輸送のため、東京駅~浜町公園に臨時延長し増発した記録が残っている。
 これ以降は、廃止まで路線の形は特に変わっていない。昭和30年代前半は両回りで100回近く運転されていたが、沿線人口の減少が始まる。中央区全体では昭和28年の17万2千人をピークとして、昭和35年には16万1千人、昭和40年には12万8千人、昭和45年には10万4千人と流出が進んだ。乗客も減少が続き、末期は40回程度の運転となっていた。
 昭和45年3月に都電代替[513](新宿駅西口~岩本町→[秋76])が開通したことにより、車輛を回す目的もあったのか入れ替えわりに全線廃止された。
 その後、同じような経路の路線として、平成元年に[東22乙](東京駅北口~IBM箱崎ビル→[東20乙])が開通した。箱崎のTCATやIBMへの通勤需要も見込んだ路線であったが、半蔵門線の水天宮前延伸により並行地下鉄ができたことで路線は低迷。本数減を繰り返し、平成24年3月に廃止された。

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